「いわさきちひろ展」を観て想うこと
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5月2日に「いわさきちひろ展」を五浦美術館に観に行きました。
いわさきちひろの絵は、これまでもカレンダーなどで何回か観ており愛着を感じていました。また、本人が戦争中の苦い反省から戦後いち早く、日本共産党に入党した人であり、夫が共産党の代議士の松本善明氏であるなど、私自身、ちひろの人柄には関心をもっていました。
ちひろの原画を観るのは今回が初めてでした。ちひろの絵の代名詞と言えば、「子どもと平和」ですが、存分に堪能できました。また、原画ならではの感動や発見もいくつかありました。
一つは、作品の中に赤の色(夕日であったり傘や長靴の色)が随所にでてきます。この「赤」に子どもたちへの未来、希望、たたかい、を感じました。
もう一つは、描かれている子どもの目です。「社会をしっかり見つめて、矛盾を感じてたたかってほしい」という、ちひろの思いが伝わってきました。
ちひろは、広島の原爆やベトナム戦争を題材にしても子どもを描いています。「二度と戦争のない平和な社会を」との願いを、将来の子どもたちに託したのではないでしょうか。このちひろの根底には、『社会は必ず変化し発展する』というゆるぎない確信があるからこそ、こうした絵が描けたと思います。
ちひろと松本善明は、ちひろが七つ年上です。実は私も女房が七つ年上です。結婚前、ちひろ夫妻のこの事実には私も大いに励まされました。
5月いっぱい五浦の地で開催されている「いわさきちひろ展」を一人でも多くの人が鑑賞することを願ってやみません。
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福田 明(北茨城市議)
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イラク戦争でよみがえった日立戦災の記憶 |
松本 康男 (久慈町) |
米英は、イラクの大量破壊兵器、保有疑惑解明中の国連に査察打ち切りを一方的に迫り、先制攻撃を行いました。毎日、テレビで放映されているのは、情け容赦なく打ち込まれるトマホーク、クラスター爆弾、劣化ウラン弾の雨。破壊された家屋、瓦礫の山、運ばれる死体、病院に横たわる女、傷ついた子どもの姿。それらを見ていると忘れかけていた、遠い戦災の記憶が甦ってきた。
〈一九四五年六月十日〉
母と兄と共に応召兵を見送りに日立駅へ行った。兵士が挨拶している時、B29爆撃機が来襲、黒い豆つぶ程の点々が見る見るうちに大きくなり、海岸工場の中に吸い込まれて行く。爆発音と土煙、次から次と1トン爆弾が投下された。(死者六三四人)家に飛んで帰る途中、大きな穴が道を塞ぐ、爆弾が落ちた跡だ。隣家の防空壕がつぶされ、中に抱き合うように生き埋めになっている親子を、親父と一緒に掘り起こし、五人を病院に運ぶ。現在の日立二高の下側、6国通りにも死体の山々。
〈一九四五年七月十七日〉
昼は機銃掃射、押し入れに隠れる。柱が砕ける。夜大雨、突然、暗闇に光が走り昼のような明るさになる。兄の「艦砲射撃だ!」の一声で、雨の中、防空壕をめざして走る。途中砲弾の落ちた穴が池になっていてその中に滑り込む。弾道の風圧で体が倒されそうになる。時々光る照明弾の明かりの中を一五○米ほど走って、鏡徳寺裏の岩穴壕についた。死体は数日後、山手工場の鍛造炉等で焼却された。
〈一九四五年七月十九日〉
焼夷弾攻撃で、日立は一万四七八戸焼失、防空壕生活を強いられる。トタン屋根のため、雨が降ると水が流れ込んでくる。食料がなく、甘藷の曼、野甘草、雑草等口に入るものはなんでも食べた。戦争は、人間の心を麻痺させ鬼にしてしまう。平和でこそ人間らしい生き方ができるのだ。
反戦、「住民が主人公」をかかげるおおそね勝正さんを勝たせるために、私も頑張りたい。
(おおそね勝正地域 日本共産党後援会ニュースbSより)
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3.15日比谷野外音楽堂大集会&銀座パレードに行ってきました |
写真の横断幕「小泉よ、私は気狂いブッシュの手下にはなりたくない!!」は集会の前日、慌てて作って行ったものですが、沿道の人達から「確かに、それは言える」と少しばかり共感を得たものです。
しかし、小泉首相が「武力行使支持」を表明してしまった今、もうこの文言は情勢に合わなくなりました。
世界の人々は日本人を、完全にブッシュの手下になってしまった、と思っているでしょう。私は日本人であることがこんなに恥ずかしいと思ったことはありません。
私たちは日本政府のアメリカ追従を止めることができなかったのです。非常任理事国のメキシコ、チリ、アフリカ3ケ国などはアメリカや日本のもの凄い圧力にも屈しませんでした。
平和憲法を持つ日本人として、2回りも、3回りも大きな世論を作り出していかねばならないと思います。
「ブッシュ、ブレア、小泉よ、おまえ達は戦争犯罪人だ!!」
「川口順子外相よ、そんなにイラクの人たちの血が見たいのか!!」
「小泉政権打倒!!」
「アメリカは日本から出て行け!!」
今、こんな横断幕を作ろうかと考えています。
2003年3月23日
日立市石名坂町 田口 俊彦
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