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タスマニア旅行記(2004.9.11〜19)
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旅の目的 妻の従姉の病気見舞い(快気祝い)を兼ねオーストラリアのタスマニア島(州)を訪れました。 従姉と3人の子どもたちとは、14年前に来日した時、わが家へ泊まって以来の再開です。政治的スケジュールやそれぞれの職場の状況をふまえ、この時期の旅行となりました。
インターネットで割引航空券を検索し、成田〜シドニー(9時間半)、シドニー〜ホバート間(1時間半)の往復運賃、空港税や旅行保険などいっさいの諸経費を入れて一人約13万円弱でした。 お土産には、切り餅・おかかのふりかけ(卵入りでないもの)・焼きのり・お茶・梅干(手作りでないもの)などの日本食品や国語の漢字ノート、若干の衣類などを持参しました。 タスマニア紹介 タスマニアはオーストラリア本土の南に浮かぶ北海道より一回り小さな島で人口は50万人弱、オーストラリアで2番目に古い街であるホバートが州都(人口約15万人)。従姉たちはホバートに在住。 旅のスケジュール 9月11日(土) 夜・成田出発 12日(日) 早朝シドニー着 タクシーとメトロモノレールで市内見学。シドニー湾クルージングで オペラハウスなどを海上から見学。当日はシドニーマラソン開催。 夕方4時05分 タスマニアの州都ホバート着。従姉と娘が出迎え、14年ぶりの再会。 13日(月) (長男の運転で) ボノロング野生動物公園見学 ―歴史的な街・リッチモンド見学 ―ウェリントン山頂(標高1500m)へ 14日(火) サラマンカ地区や市内のあちこちを散策 (デパート、郵便局、銀行、本屋、レコード店、ピザ店、 寿司店、みやげ物店、寿司バー、波止場、公園などなど) 15日(水) (長女の運転で) タフーンフォレストエアウォーク(森林空中散歩) −ヘイステイングス鍾乳洞見学 ―市内のステーキ店で夕食 16日(木) (おじいさん・88歳の運転で)ヒューオン渓谷でフィッシュング (私はトラウトを2匹ゲット)− 市内近郊のネルソン山へ −ミニゴルフ −寿司バーで夕食 17日(金) 市内散策(カジノ、博物館、バーなど)― おじいさんの家で夕食会 18日(土) サラマンカの土曜市を覗いてホバート空港へ 、夜シドニー空港で乗換え 19日(日) 早朝・成田着
旅行を終えて
何度か国外旅行をしましたが、”人や自然とのふれあい”では最高の旅行でした(カミサンも同感)。一つ一つが今も鮮明に残っています。 余談ですが、 その1 カミサン曰く「お父さん(私のこと)は、アメリカやカナダへも行ったことがあるというから、もう少し英語が出来るのかと思っていた」。(カミサンは、私が英語がよく分からなかったことによるシドニーでのハプニング / 例えばシドニー空港でバゲージを持ったままターミナルの中を300mくらい必死で走りぬけ、飛行機が動き出す2分前(決してオーバーでなく)に機内に飛び込んだことが相当こたえたらしい。 −夫の反論「30年以上も前のことだし、まあもともとたいして英語は出来ないが(ひかえめでなく本当に)、オーストラリアンイングリッシュだったからなおさら分からなかったんだよ」 * 参考までに 例えば カンタス(航空会社)→コンタス ステーキ(牛肉)→スタイク デイ(日)→ダイ ペーパー(紙)→パーパー と私の耳には聴こえた。 その2 私が「むこうでは誰もかれもが挨拶の時、抱き合い、ほっぺをくっつけ合っている。従姉の娘さんも私にそうしてくれた。だから今度は日本でも、(私の)姪たちが来たら、オーストラリア形式で挨拶してもらおう」と言うと、「何を考えているの」と、カミサンにピシャリ。 ─ 今回の旅行(長期休暇)では、留守中多くの方に何かとご迷惑をおかけしました。 おかげさまで有意義な旅行をすることが出来ました。ありがとうございました。 旅で感じたことあれこれ ・ なんといっても自然も街もきれいなこと、「きれいだな〜」の一言に尽きます。自然が豊かで、緑の中に家があるといった感じ。ホバート近郊のネルソン山からの眺望は本当に日本の松島の比ではありません。夜景も函館は負けそうです。季節がちょうど日本と正反対でもうすぐ春を迎えるところで、庭には桃(梅?)が咲いていました。街にはごみも電柱も無く、きれいそのもので、ちなみにごみは毎週月曜日に各家庭の軒先まできて収集していくそうです。 ・ お金の交換レートは1オーストラリアドル約83円、物価(購買価格)は日本と同じくらいでした。日本の商品は結構そろっていたが、日本酒を売っている店は少なかった。(ボトムショップでやっとこ月桂冠を見つけた時のカミサンの喜びようは相当なものでした。) ・ 走っている車の三分の一は間違いなく日本車(トヨタ、三菱、スバルなど)で、フォードと韓国車も結構走っていました。オーストラリアの人たちは、日本人ほどは車の汚れを気にしていないようです。日本と同じ左側通行なので、国際免許をとって行ったものの、郊外ならともかく街内では自信がなく、結局運転しませんでした。魚つりの時は従姉の夫(注・元)の父親(88歳)が自らハンドルを握りました。 ・ 日本人もいたるところで目につきました。シドニーではメトロモノレールに乗ったら、向かいの席に千葉の女子大生3人がいて、語学研修でオーストラリアに来ているとのことでした。タスマニアの歴史的な街リッチモンドでは、以前ホームステイしたことがあるという20歳前後の女性が2人、ホバートでは寿司バー(寿司屋とビアホールを足して2で割ったような店)のマスターと長崎県出身だという20代の女性、市中ののり巻き寿司ロールショップでは20歳そこそこのアルバイト店員など、みんな元気でがんばっていました。 ・ オーストラリアではみんなニコニコ親切で愛想がよく、ユーモアもあります。ある銀行では、国際ボランテアをしているという銀行員が道化者のような(まるで志茂田景樹みたいな)身なりをして通常の業務をしていました。(日本だったら、明日からもう仕事に来なくていいよ、と絶対言われると思う)。免税売店でお土産用に10箱入りのチョコレートを買おうとしたら、そのビニールバックに「made in china」の横文字が。あわてて聞いたら、「中身は正真正銘オーストラリア産ですからご安心を」とニコニコ笑顔。品物を買わなかった店をふくめどこでも「サンキュウー」で雰囲気がいい。郵便局に入ったら、コンビニと農協が合体したような感じで日曜雑貨品まで売っていました。従姉の娘(20歳)は、「車がきれいだね」と言ったら、「みなさんが来るというのでお陰さまで8ケ月ぶりに車内をきれいにしました」と笑いながらの返事。 ・ かつて日本で大企業で働き、今は毎週土曜市が開かれるサラマンカに店を持ち、日本の着物や骨董品を商売している元アメリカ人は「日本人は主体性(自己主張)が弱くて横並び(周りばかり気にしている)の人がほとんど。そのうえ出る杭は打たれる社会だ」と真顔で話していた。 ・ 金曜日の夜、従姉の夫の両親の家でみんなで食事会をした時に政治の話になった。家族みんながオーストラリア政府のイラク政策(派兵)に反対しており、労働党が政権をとればオーストラリア軍をイラクから撤退させられると言っていた。(10月9日が総選挙の投票日なのだが、町なかのどこにもそれらしいものは無し。公営掲示板も無く、1週間の滞在中一度も候補者カーや運動員に出くわさなかった。どこで選挙をしているんだろうといった感じ。唯一目に付いたのは100軒(あるいはそれ以上)に1軒くらいの割合で、支持者と思われる人の家・敷地に立てられている1枚の候補者ポスターのみ。2大政党制が出来上がっている状況のようで、オーストラリア共産党は国会にも、州議会にも議席を持っていない) 私が日本共産党の仕事をしていることや、「日本共産党は日本でナンバー4の政党で、イラクから自衛隊の撤退を主張している」と言うと、「日本に住んでいたことのある元・夫が自民党は国民の支持を得ているのか、次の選挙で政権の交代はあるのか、宗教政党はどうか、社会党はどうか」などと聞いてきた。私は、自民党は国民の支持を騙し取っていること、ナンバー2の民主党も中身は自民党と同じであること、宗教政党は平和も福祉も放棄したこと、社会党はいまは(後継党が)小さくなってナンバー5になっていることなどを話した。従姉の娘は、「友達の知り合いがイラク(派兵)から帰ってきてからずーっと心の病気になっている。ハワード(オーストラリア首相)もブッシュも間違っている」と言った。 ―英語がほとんど分からない私だが、何故かこの時は会話が通じたから不思議。 ・ 夕方6時ごろになるといつも従姉の娘が私たちをピックアップしてくれて街の中へ繰り出すのだが、何回目かの時に「会社の仕事は大丈夫?残業しなくていいの」と聞いてみた。するとそれを聞いていた従姉が「ここではみんな5時になると仕事は終わりなの。もし仕事が終わらなくても私のせいじゃない、という意識なの。だからその事でトラブルも無いし、残業なんて勿論無いし、ましてサービス残業なんて無いのよ」と、言った。私たち(日本)よりはるかに進んでいるな、と思いました。 *日本とオーストラリアの休暇の違い〜従姉が言うには、オーストラリアでは、年間で2週間以上それもほとんどの人が一ヶ月の休暇をとるのが当たり前になっているとの事。
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