投 稿
  
 「播州平野」を読んで
佐 藤 義 雄(日立市在住)
 まだ二十歳にならない戦前だったが、職場同僚の先輩に文学好きの青年がいて、その彼から宮本百合子の話をきいたことがある。その後私は「赤紙」で戦争に引っぱられ、宮本百合子のことは忘れ去っていた。
 一九七〇年頃から宮本百合子への関心は芽生えたがその作品を進んで読むことはなかった。その私が大きな感銘を受けたのは、一九七六年の八月の夏をむかえて読んだ「播州平野」である。この頃は全国的に、地方に革新首長が次々と生まれ、これに対し支配者側が第二の反動攻勢に出た時期であった。
 小説「播州平野」は、こうした情勢のなかで、私自身が中国で体験した日本の侵略戦争に生命をかけて反対しぬいた小説中の重吉とその妻であるひろ子の人間像を通じて、誰が人間の生命と生活を破壊し、誰が守ったのかを、鮮明に克明に教えてくれた。そして日本の真の独立と平和と革新のためにたたかっている日本共産党への信頼をさらに深くしてくれた。
 最も感銘をうけたのは、日本国民三百十万とともにアジア諸国民二千万以上の生命を奪ったあの日本帝国主義の侵略戦争のなかで、民衆の苦しみ、悲しみ、よろこびを洞察し共有しつつ、自らは非転向党員である夫とともに、反戦平和の旗を守り通した一人の妻である国民の命の光であった。私はここに「播州平野」の高い芸術性、文学性の源があったのだと思っている。
 「播州平野」のあまりにも有名なところだが、敗戦が天皇によって国民に放送された八月十五日のそのとき「歴史はその巨大な頁を音もなくめくったのであった」というくだりがある。国民の多くは茫然自失の状態に投げ込まれた中で、歴史の発展をつかみとった世界史への共感であり天皇制権力と侵略戦争に反対を貫き通したものによる、日本帝国主義敗北への心理的表現であった。
私は八十歳を目の前にして、やっと『十二年の手紙』を読んだ次第なのだが、この八月十五日の場面を思い起こすと、百合子が獄中の顕治からのすすめもあって科学的社会主義の古典文献を勉強し、それを顕治にも二人だけの間でわかる便りで知らせていたことを思い出す。
 日本国民にとって(別な意味で大きな犠牲をうけた中国やアジアの人々にとっても)忘れることのできない歴史的な日である八月十五日の天皇放送を「歴史の悶絶」ととらえるとともに、縁側に出た小説中の小枝の姿に目を向けたひろ子に、国民一人一人の心の中の姿を見させている。日本中の多くの主婦はどんなにこの戦争終結を待っていたことか。それを表には出せずに苦労をつづけてきたそのことも小枝の姿は語っていた。敗戦の日を描く場面には、戦争の本質とその行く先を予見することの出来た科学的社会主義の理論を身につけ、夫顕治と共に一点恥じなく歴史の大転換をむかえた作家・宮本百合子の透徹した姿がある。
 この小説が多くの分量をさいているのは、ひろ子が重吉の実家ですごす何日間であるが、感銘を深くした点をのべてみたい。私が教えられたのは、戦争によって壊されたものは物的なもののみでなく、一家のあるべき男が奪われたことで、日常生活の中で複雑に破綻してゆく心の姿にあったことだった。作品中であげていた日本中に幾十万ヵ所に出来た「後家町」。私などもそう思えば、そうした家庭を知っていた。しかし家庭のなかの心につき刺さった戦争の爪あとまでは思い及ぶことはなかった。
 ひろ子が重吉の獄中での重い病のときなどを回想しながら、つや子や母を通じて戦争のもたらした爪あとに思いをいたすところには、侵略戦争への深く鋭い告発がある。
 この滞在のなかで、つや子のように戦争で夫を奪われた日本国中の妻と、重吉を獄中に奪われた妻としての自分を比べ、治安維持法が侵略戦争のためで苦しみの根は同じであったと思いながらも、夫に会える自分は幸せであったとひろ子に語らせるところがある。ここは宮本百合子の人間的な謙虚さの現れとして感動に近い気持ちで読んだ。
 重吉の釈放が新聞に出てからのこと、重吉の弟を戦争で奪われ、一方では重吉をとりもどすことになる母へのひろ子の姿は、母へのいたわりに満ちた場面であるが、戦争は一人の生身の母の上にも、明暗のからまる傷跡を刻んだのである。私はここを読みながら、息子の戦死公報に接した母親が、納戸の暗い中で一人泣いていたことを、戦死者の弟から聞いたことを思い出し、日本中にはこうした母が幾十万となくいたことを思った。
 人間の幸せを真剣に考え、そのことのために生きた百合子の「播州平野」で気づいたことの一つは、敗戦という日本人にとって未曾有のなかの人々のさまざまな生き様と世相を写しとるとともに、侵略戦争への告発は、庶民の人間性とその本来あるべき心の姿を打ち壊し歪めてゆくことに向けられていたことであった。
 二つにはひろ子と重吉の関係としてそれは語られているが、私が感銘を深くしたのは、十二年の歳月の道程を支えたのは、二人が日本共産党の旗のもとに生きたことと、重吉の存在であったことを、解放されてくる重吉への思いの中でひろ子に語らせていたところであった。
 三つには作品の最終章である。天皇制権力の治安維持法と監獄から解放されてもどってくる重吉へとちかづく東へと向かうひろ子は、この途中で、羨望と蔑視の目で見る日本人もいるなかを、日本軍隊から解放された朝鮮人の若者達が、喜び勇んで故郷に急ぐ姿を見る。そしていま一方では少年兵の一隊と会う。この場面には、若者を「特攻」にし、そして子供までも「少年兵」とした残酷な「天皇の軍隊」の実態がとらえられている。ここでの「祈り」に近いひろ子の姿は胸を打つ。
 それからの文章は、まわりの播州平野の風景と、「重吉に向かって進んでゆく」ひろ子の心の風景を描いてこの小説の終わりにふさわしい明るく力づよいものとなる。そして最後に再び朝鮮の若者と会うところが描かれてゆくが、ここにも重吉の解放とも重なって、朝鮮植民地政策に反対してきた一人であった宮本百合子の生々とした姿が脈打っている。
 敗戦というなかで、日本人の誰もが混沌と沈滞に包まれていた時、少数であっても未来への確信と展望を持った日本国民の存在をこの「播州平野」は示したのだった。私はいま友人や知人などまわりの人に寄贈するために、中国での戦争体験の事実と真実を追求する小冊子(パンフ)を準備している。少しでも「播州平野」から学んだものを生かしたいと思っている。                

(「民主文学」1999年2月増大号 宮本百合子生誕100年公募感想文より)

(HP管理人よりご案内) 「播州平野」全文をお読みいただけます。→こちらから (青空文庫

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