投 稿
伝統芸の継承−京舞、井上八千代の場合 | |
若いときから、毛嫌いしてきたものに伝統芸能がある。たとえば、演劇であれば、能や狂言、歌舞伎、文楽、新派、新国劇等々、もっとあるかも知れない。演劇以外の分野まで加えたら、食わず嫌いはどれほどあるかわからない。 なぜ毛嫌いするのか。自分でもわけがわからないから、毛嫌い、食わず嫌いなのである。 昨夜(四月十二日)、NHK・TVの3チャンネルで、京舞四世井上八千代の映像をみた。 彼女は昨年、九十余歳で亡くなっているから、敗戦の時点ですでに三十歳をすぎていた筈なので、TVの映像が残されるにいたるにはさらに歳月を必要とした。したがって、放映された3チャンネルの映像は、映画からとったものが多く、TV映像は彼女の晩年のものにならざるをえなかった。 五十余歳で舞ったものは、身体全体から女性の色気が滲みだしていた。彼女は身長が百四十センチに満たない小柄な人であったが、その立ち姿はそれをまったく感じさせない。その身体の線の女性らしい美しさ、柔らかさは歌舞伎の玉三郎のように極限まで身体を撓らせなくても、充分それに匹敵するようなしなやかさを窺わせるものであった。彼女の顔の造作もその部分を一つ一つ吟味してみると、必ずしも美人とは言えないであろうが、その凛と引き緊った表情を加味すると絶世の美女に見えてくるから、芸とは不思議なものである。 その清冽なまでの美しさは、彼女の精神が内に向かって切りこんで行く力から湧き出ものであり,外に向かっては自分の動きの中から余分なものをすべて削ぎ落とした能の舞に似た形となってあらわれてくる。それゆえ、彼女が舞扇を振り翳して切りかかるような仕草をすると、舞扇は本物の小刀のごとくみえ彼女の前に人がいたならば、まさに血を流して倒れるような鋭い気力に圧倒される。このような美女とは長時間対座していたくないものである。疲れてしまうであろう。 また、彼女の舞の中には文楽からとり入れた人形ぶりがある。たとえば、膝から下の関節の力を一度に抜いて座ったりする。このように、文楽や能の影響を直接受けているので、歌舞伎の踊りとは根本的に違っている。それは群舞によくあらわれている。師匠の井上八千代を中心に、祇園演舞場で舞子や芸妓などが舞う姿は完璧に一糸乱れず、足先から手先まで見事にそろっている。この稽古はさぞや厳しいものだろうと推察される。 素踊りの美というものは、歌舞伎役者が袴を着けて踊るのと共通であるが、彼女の場合は女性が踊るのであるから、女性の着物の美と、背景となる屏風と扇などの持ち物などとのデザイン、色彩の調和が重要となる。 屏風の多くは金屏風であり時には銀屏風もある。よく磨きぬかれた床は、光のぐあいによって、金屏風の時には金色に光、銀屏風の時には銀色に光ってみえることがある。このような文様の何もない背景の前では、女性の衣装は絽や紗がよく映える。それは黒系統であるから、裾模様としては余り大きくなく派手にならないデザインの白又は銀の模様。こうすると、半襟、帯締、足袋、裾捌きのときに見える裾裏の白などが粋にみえる。全体として、さり気なく単純に見えて、その上品な色彩感覚は京都人の長い伝統がもたらしたものであろう。 このような厳しさを持つ井上流が、なぜ京舞として、女性だけからなる舞子や芸妓にうけいれられて、長い間修行されてきたのであろうか。素人眼には、もっと柔らかく変化自在な他の流派(具体的には、どんなものがあるか、私にはわからないのだが、花柳流とか何とか柳)の方が祇園の贔屓の旦那衆には好まれたのではなかろうか。逆に、今でも京都の上流階級はあらゆるげいのうについて確立された権威のある古典が好きなようであるから、能や文楽からの影響力の強い井上流は好まれたのかもしれない。 そうはいっても、祇園での遊びにまで、彼らはそうゆう古典芸能を持ちこもうとしたのであろうか。祇園での遊び方について何も知らない私には、今のところ、わからないとしか言いようがない。 なお、この小論においては、長唄、浄瑠璃などの音曲と京舞との関係については触れていない。私にはそれを論ずる能力がないからである。 いずれにせよ、井上流京舞の映像をみたことによって、若い時からの毛嫌いを解消する一歩とすることができるか否か、自分のことながら興味のあるところである。 二〇〇四年四月十四日
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大沼 常喜氏 略歴 茨城大学人文学部卒、経済学専攻で主にマルクス経済学を学ぶ。 大学卒業後、正則高校、茨城県立太田一高、日立一高教諭として社会科を担当。 日立一高教諭の一九七〇年ごろ、教員仲間数人と文学同人を結成し、その機関紙「甃」に作品多数を発表。二〇〇四年七月肝不全で死去するまで文筆活動し続けた。 大沼氏は教員生活中、文筆活動の他、民主的組合活動、高校生の文化活動の発展にも力を注ぎました。 七〇年代には人事院勧告の完全実施を求めて行われた闘争に参加するとともに、日教組の「スト万能論」に「教師教職論」を対峙し組織を固めました。その後、茨城県高等学校教職員組合日立支部・支部長を三期つとめました。 文化面では、大学で演劇部員であったことを生かし教員生活の中、演劇部顧問として活動しました。七〇年代はじめには、県内高校の「文化部」の活発化をめざして、県高等学校文化研究部(高文研)の設立に中心的役割をはたしました。 大沼氏の死因はC型肝炎が起因となった肝不全。三〇代半ば、演劇出張の際の交通事故、その手術の輸血がもとでした。病とたたかいながらも、教員、文学、社会変革にささげた一生でした。
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