日本共産党茨城北部地区委員会                                   

    

学校で「人殺し」を教えた不幸な時代
 

2008年2月 小貫 雅史 (日立市在住)  


 
 筆者略歴
 元茨城県教職員組合中央委員
 元同 日立支部書記長、副支部長
 元日立市議会議員
 私は1928年(昭和3年)1月、満州(現中国東北区)撫順市*で生まれました。したがって私の幼児期から学生時代までは「大日本帝国憲法(明治憲法)」のもとで生きてきたわけです。また、敗戦になって引き揚げてくるまで父の転勤に合わせて「満州」の各地で暮らしたので、植民地の姿もみてきました。
 しかし「明治憲法のもとで生きてきた」といっても、学校で憲法そのものについて教えられたことはありません。「憲法発布は明治22年」と和暦の暗記をした覚えしかありません。勿論、社会や家庭の中で話題になることもありませんでした。「満州が植民地である」という事実などには考えも及ばず、当然の風景として眺めていたのでした。
*撫順市の位置


明治憲法のもとで

 明治憲法そのものについての教育がなくても、その影響は極めて大きなものでした。憲法の内容は、法律、行政、や近隣社会のしきたりとしてどんどん頭の中にたたきこまれていきました。このなかで最も影響力のあったのは、「教育勅語」で学校教育を規制したことではないでしょうか。天皇を神とし、絶対服従が求められました。そして柔らかな若い頭脳は自らこれを信じるようになりました。
 小学校5年の国史(日本歴史)の授業で、「天孫降臨」という課がありました。天皇の祖先が雲に乗って日本列島に降りてくるところが挿絵になっていました。子ども心にも不思議に思い「先生、その人たちは雲から落っこちないのですか」と聞きましたら、先生に「そんなことは質問するものではありません」と注意されました。教育勅語を体現しなければならない先生も困ったのではないでしょうか。また、学校の儀式では正面に天皇の写真を掲示し、全員が深々と頭を下げる所作が強要されました。天皇の神格化と「絶対服従」の精神を教えたわけです。まさに、 明治憲法(第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス、第二条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス、第三条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ・・・・、第十一条 天皇ハ陸海軍を統帥ス)の忠実な実践です。
 このようなことの積み重ねで「神」が作りだされ、軍国少年として育てられていったのだと思います。

学校で戦争の準備

 中学校に進むと、教科のなかに「(軍事)教練」が加わりました。学校には現役の陸軍将校が「配属将校」として勤務しており厳しい指導を受けました。

学生への軍事教練「マスコミ・文化九条の会所沢」サイトより)

 三年生になると教練は武装した訓練になります。銃器庫にいくと黒光りした銃が銃架にならんでいました。配属将校は大声で「諸君は天皇陛下の軍隊の一兵士だ。中学生だと思って甘えてはならぬ。この銃は恐れ多くも天皇陛下から下賜された銃である。お前らの生命より大事な銃だ」と教えました。しかし、このことに反発を感じるより、肯定的な緊張感を持ったように思います。この銃は何をするためのものかを考えもせずに・・・。軍国少年になっていたからでしょう。
 射撃訓練もありました。実弾よりは射撃力の弱い弾でしたが、それでも標的の真中に当てた時は得意になったものでした。こうして「戦争する喜び」が若い身体に注入されていったのでした。
 銃を使っておこなう訓練には、「突撃」というすさまじい科目もありました。「突撃用意」の号令で、銃の先に腰の短剣を装着して槍のような形にし、「突撃」の命令で突っ込み、敵兵に見立てた藁人形を「ヤーッ」と気勢をあげて突き刺します。元気がなかったり不備なところがあると教官に一喝されます。夢中になって繰り返したものです。
 学校で「人殺し」を教えた不幸な時代を思い起こし恥じています。

「満州国」と東洋の盟主

 1932年に満州国建国が宣言されました。傀儡国家を独立国としての体裁を整えるためでした。満州国成立のスローガンは「五族(日・漢・満・蒙・朝民族)協和」によって「王道楽土」の理想郷を作ることだと教えられました。しかし、一方でこの理想とは全く逆のことが強調されました。教練の時間に、配属将校は「周りの民衆をよく見ろ。彼らは憐れむべき友ではあるが、頼りにならない友だ。諸君は東洋の盟主・指導者として彼らを導くのだ。」と。これはまさに全アジア侵略の「大東亜共栄圏」の思想ですが、これを無批判に過ごしてきたことを悔やむばかりです。
 また、「満州国」はスローガンの「楽土」とは大きくかけ離れた、軍隊(関東軍)による統治国家でした。日本人が住んでいる街には必ず日本の軍隊が駐留していました。朝には起床ラッパ、夜になると就寝ラッパの音が兵舎から聞こえてきたのを覚えています。日本人は軍隊に守られ「安心」して暮らしていたわけです。こうして軍国主義・全体主義思想が私たちの身体の中に刷り込まれていったのだと考えています。

「日本国憲法」と改憲

 終戦の翌年1946年に「日本国憲法」が公布されました。国の主権者は天皇ではなくて国民であるという「国民主権」、人々にはそれぞれ「基本的人権」が保障されている、そして世界に先駆けて「一切の戦争を放棄し武力を持たない平和主義」が確立されていました。この基本的な柱は明治憲法を完全に否定することです。しかし、このすばらしい憲法も明治憲法体制で育てられた頭ではなかなか理解できない部分もありました。この年のはじめに天皇が「天皇人間宣言」をだすような状況でしたから・・・・。
 しかし、多くの友人たちと一緒に日本国憲法の指し示す平和運動、教育運動、労働運動等の中で少しずつ前進することができたように思っています。
 改憲を唱える人々は、9条を中心とする憲法の民主的条項を蹂躙し、「戦後レジューム」の解体を叫びます。解体後の国の体制の行き先はどうなるのでしょうか。
 教育基本法の改悪、侵略戦争と教科書検定、天皇の元首化公言、国家総動員法を思わせる「有事立法」、非正規雇用と労働法制の改悪・・・どれをとっても明治憲法への逆戻りとしか映りません。
 再び選択を間違えたら私は犯罪者の謗りを免れることはできないと考えています。

「茨城民報」(08年2月号)より転載

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