投 稿

   大海のような母の愛         永 井  一 郎(東海村)

 
 この小文だけで母の全体像を記すことは出来ない。94歳という我が家では最長の生涯をゆうゆうと生き抜いた母ふさの、断章をつづることにする。
 母は鹿島郡のある小学校の校長だった永井松之介を父に、同じく鹿島郡大野村武井の松倉家の娘久良(くら)を母に生まれた。父の実家が東海村(当時は村松村)白方にあり、父母ともに永井新兵衛(墓碑銘)の養子となり、永井家を継いだ。

 楽天的な「明治の女」

 母は日立市茂宮町(当時は坂本村)出身の警察官大砂哲を養子に迎え、永井家を再興した。母は兄久男と二人兄妹だったが、教員だった久男が腸捻転で早逝したためであった。母は生来、明るく楽天的というか、前向きな性格で、身体は比較的丈夫だった。その点、まじめ一徹で几帳面な父とは対照的で、「明治の女」といえる。
    
 さつま汁をすすりながら

 生活力はあった。7人の子ども(三男、健三は生後まもなく死んだ)を育てた力量は見事だ。太平洋戦争のさなか、じゃがいも飯を食べ、さつま汁をすすりながら、子どもたちはすくすく育った。大海のような母の愛がなかったら出来なかった大事業と思う。母の30代は警察官から役場職員となった小官吏の妻として暮らした。子だくさん生活は決して楽ではなかったと思うが、父の月給を基に生活は何とか成り立っていたと思う。

 父の死、苦難のなかで

 本当に母の力が出たのは、数え年49歳で父が亡くなり、総領の私がようやく中学を卒業したばかりで、7人の子どもを育てなければならない関頭に立った時だ。母はなれない田畑の仕事などに精を出しがんばり抜いた。そして力を合わせることで生きていけることを教えた。息子が共産党に入って活動をはじめ、周囲がきびしい環境になつても笑って息子を信じた。

 母があって俺がある

 私は何回も選挙をやった。打揚げの夜、母は必ず群衆の中に居た。宣伝カーの上で、最後の訴えをする私はその年老いた母の姿をみるたびに、涙があふれるのをどうしようもなかった。「この母があって俺があるんだ」この時程そう思ったことはない。
 2000年10月8日午後2時、母は静かに息を引き取った。娘、息子、孫、ひ孫に見守られて、これもゆうゆうと死んでいった。丁度12時頃、母は眼にぽとりぽとりと涙を流した。「おばあさんの別れのあいさつだよ」私は一同に言った。母は別れのあいさつも忘れなかったのである。今でもそう信じている。

 (茨城いしずえ会会報 第10号に掲載)