日本共産党茨城北部地区委員会                                   

 思い起こそう マルチン・ニーメラーの言葉
辻井 英雄



 私は日本国民の一人でありながら、生まれも育ちも純粋戦後派であるがゆえのいわゆる「平和ボケ」(このこと自体は決して悪いことではないと思うが)の影響もあってか、憲法問題について、正面からきちんと向き合うことが殆ど無いまま今日に至ってしまった。そんな具合だから最近まで、「憲法に『戦争の放棄』が謳われているのだから日本が戦争をすることはまずないだろう、九条改定なんて、国民の大多数が戦争反対なんだから、そう簡単にできるわけがない」などと、他人任せの淡い期待ともいうべき思いが心のどこかに巣食っていた。
 戦後、今日まで日本がとにもかくにも平和といえる状態が続いてきたのは、実際には平和憲法を守り支えてきた多くの人たちの奮闘によるものだが、有り難いことに、「平和ボケ」の私も知らず知らずのうちにその恩恵を受けながら今日に至っている。しかしいかに私が鈍感とはいえ、さすがに今日の憲法とくに九条をめぐる情勢には危機感を抱かざるを得なくなっている。
 
 “飛行機が人を轢く”という前代未聞のゴードン事件

 私が住んでいるひたちなか市阿字ヶ浦町のすぐ後背地は、旧陸軍水戸飛行場が敗戦によって米軍に接収され、73年まで米軍の射爆撃場となっていました。そのため、ひたちなか市史には記載されていない死傷事

(「勝田市史料Ⅴ」より  「二級国道」は現在の国道245号)
故を含めて数多くの事件や大事故が起こっている。その一つが私にとって忘れられないゴードン事件です。
 1957年8月2日、超低空飛行の米軍機が県道を自転車で通行中の母子を飛行機の車輪で轢き殺傷しました。(この時の操縦士の名がゴードン)。小学生だった私は海水浴場から家に帰る途中で、大勢の大人たちが「飛行機が人を轢いた」と言いながら慌てたように走っていくのを見て、赤いふんどしのまま大人たちに付いて行きました。現場に行ってみると、家の畑の隣のさつまいも畑が飛行機の車輪でなぎ倒され、被害者の体がばらばらに散らばり、警察か消防の人が長火箸で肉片を拾っていました。息子さんはその時は重症ながら生きていましたが、あたり一面さつまいもの葉が真っ赤な血で染まり直視できないほどでした。いまもその時の光景が目に焼きついています。
 この事件を米軍側は異常気流による不可抗力的事故と主張したが、地元の市議会は操縦者のゴードン中尉(当時27歳)のいたずらによるものと断定、茨城県警は水戸地検に書類送検しました。ところが公務中の過失として不起訴処分となっています。死亡者への補償額は43万円余でした。この後、基地返還運動が急速に盛り上がり1973年の返還へとつながっていきました。
 いま、米軍F15戦闘機の百里への訓練移転が問題になっていますが、そんな事を許したら、第2、第3のゴードン事件が起こりかねません。
 余談ですが、私が小学生の時、校庭に米軍のヘリコプターが舞い降り、中からサンタクロースが出て来て、お菓子をプレゼントしてくれたり、確か10円玉をばら撒いたりしました。勿論私たちは夢中で拾いました。4年生の頃、「明治天皇と日露大戦争」などの映画を2回ほど上学年だけで団体観賞したのを覚えています。隣接の中学校の校庭には自衛隊が2年か3年続けてキャンプを張ったこともありました。また私の家のすぐ近くに米兵相手の「お姉さんたち」がいて、「お姉さんたち」や米兵と一緒にスイカを食べながらトランプをしたのを覚えています。さらに、戦前のかの有名な右翼テロである「血盟団事件」の首謀者もメンバーも阿字ヶ浦出身で、その内の一人は私の家の隣の人で、生前「辻井君、人間は一つのことを貫く、ということが大事だ」と言われたことがありました。今にして思うと何とも奇妙な環境のもとで育ったものだと苦笑しています。
水戸対地射爆場を東海村側上空から撮影 左は太平洋、右上の円は標的
(日本共産党茨城県委員会発行パンフレット「美しい自然 くらしを豊かにする射爆場跡地の利用を」より) 


 明確に平和への意志をもって訪れた盧溝橋
日中全面戦争の発端となった盧溝橋にて

 私は今年6月、北京郊外の盧溝橋に立った。日中関係を学ぶ中で、いつか必ず訪れようとの思いを強くしていたもので、北京(政治)・西安(歴史)・上海(経済)の中国3大都市を息子と旅した際に真っ先に駆けつけた場所である。そして(少々大袈裟だが)偽りの歴史認識を変えない小泉首相に成り代わり中国の方々に対し、かつて日本が犯した過ちを謝罪した。
 若い頃の私は「自由の国・アメリカ」への漠然とした憧れを抱いていた。どうしても行ってみたくなり、34年前、25歳の時に単身渡米したことがある。そのアメリカは今では、当時の私の思いの対極にある。今日、私の最大の関心事は中国である。世界最大の人口を擁する国、長い歴史をもち日本とも深い関係にある国、「社会主義市場経済」のもとで飛躍的発展の渦中にある国、そして今後の日本の国づくりにとって切っても切れない重要な位置にある国だからである。
 日中全面戦争勃発の地・盧溝橋に立った時、息子は“何でわざわざこんな所まで”と言いたげな感じだった。日頃の息子とのやりとりは、私が「このままほっといたら日本は戦争する国になりかねない、徴兵制だってあり得る」と言うと、「そんな事は無いと思う、何でそう(悲観的、否定的に)決めつけてしまうのか」と言った具合である。
 盧溝橋に隣接する「戦争記念館」には、日中戦争さ中の日中両共産党による「不戦の誓い」が展示してあるのでこれもぜひ見たいと思っていたが、残念ながら全面改修工事のため入館できなかった。

 知った者の責任―“黙っていること、何もしないことは彼らに(戦争勢力)手を貸すことになる”

 小泉内閣が誕生してからというもの、私は「平和ボケ」からもう決別しなければいけないとの思いを強くしている。かつて評論家の串田孫一さんが、当時“この顔がうそつく顔に見えますか”と言った中曽根首相がテレビ画面に出てくると、スリッパで(画面を)叩きたくなると言っていたのを覚えているが、今の私は、小泉首相がテレビに出てくると条件反射的に怒りが沸きあがる。「すりかえ」「欺瞞」こうした言葉が即座に浮かんでくるからだ。「国際貢献」「抵抗勢力」「小さな政府」「官から民へ」…よくも平然と騙し続けられるものだ。もっとも私にとっては、憲法や平和のことを考えるうえで「ありがたい存在の教師」でもある。勿論一刻も早く退場してもらわねば困るが。
 このところ連続して幼い少女の命が奪われる事件が起きている。イラクでは今日もまた多くの人々の命が失われている。アメリカによって引き起こされた、戦争という人間の明確な意思によって。私は、どんな理由をつけようと人の命を奪うということは絶対に許されない行為だと思っている。人間の命の重さは、何をもってしても量れない“尊いもの”だと思うからだ。私のこの永遠に変わることのない思いが、今、戦争推進勢力が牛耳る国家権力によって、偽りの「平和/国際貢献」の名のもとに根こそぎ奪われかねない危うい状態になってきている。それもあの小泉首相が先頭を切って、だ。
 つい先日、ある会議で、ひたちなか市の平和活動家が、“(今の憲法改悪へのこの情勢を知りながら)黙っていること、何もしないことは彼らに手を貸すことになる“と熱を込めて訴えていた。彼自身の平和への思いと実践をふまえての心底からの熱い思いが私の心にズシリと響いた。私はその時マルチン・ニーメラーの言葉を思い浮かべていた─

  ナチスが共産主義者を弾圧した時 私は不安に駆られたが 
自分は共産主義者でなかったので 何の行動も起こさなかった
その次 ナチスは社会主義者を弾圧した 私はさらに不安を感じたが
自分は社会主義者ではないので 何の抗議もしなかった
それからナチスは 学生 新聞 ユダヤ人と 順次弾圧の輪を広げていき
そのたびに 私の不安は増大した が それでも私は行動に出なかった
ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた そして私は 牧師だった
だから行動に立ち上がった が その時はすべてが あまりにも遅かった

 本当にもう「平和ボケ」から脱却しなくては。『科学の目』をもって。
2005.12.17 記

 解説 : マルチン・ニーメラー →goo辞書 →はてなダイアリー

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