ドイツ・ポーランドピースツアーに参加して | |||
2007年10月 さくらのまち日立平和の会 F生 | |||
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(1)戦後処理をめぐるドイツと日本の事情 先日、日本平和委員会が主催したドイツ・ポーランドピースツアーに参加した。1週間の間に2回にわたり、ドイツで活躍する平和活動家らとの交流会が持たれた。両国主催者の努力で参加者は想定を遥かに上回り、ドイツ側からは著名人多数の出席となった。互いの国での軍事基地をめぐる闘いの様子・問題点などが話しあわれたが、なかでも基地が住域に接する日本での基地闘争にはドイツ側から大きな関心が寄せられた。基地を身近に感じる環境にないドイツでは闘争の発展に苦慮している部分もあるようである。私は百里基地での“くの字”に曲がった誘導路と日本国憲法九条のかかわりと闘いの現況を一坪運動などを織り混ぜ紹介した。写真入りで紹介した資料に対して、「それは日本のどこにあるのか」という質問もだされた。残念だったことは2回とも時間が不足したことである。
ドイツでの平和運動と日本でのそれの違いは、何といっても国の政治のあり方の差異が顕著であることである。ことさら、過去の戦争に対する姿勢の差にそれが特徴的に見られる。ドイツは第二次世界大戦で、当時3,600万人だったポーランド国民の20%弱を殺戮したばかりか、ヨーロッパ全土で虐殺数の合計は1,100万という数値まである。これらは歴史教科書で既に周知のことであるが、しかし、一方で1970年に当時のブラント首相がポーランドのワルシャワ・ゲットーの記念碑前で献花後にひざまずいたことはあまり日本では知られていない。歴史を心に刻むことを国是とするドイツの姿勢はこの時から、今も国をあげて変わらない。過ちを繰り返さないことと他国の平和も同時に考えるということを目指し、今なお、政府と企業からの基金などで被害国に対して賠償をし続けている。強制労働被害に対する賠償額は、2006年時点で総計およそ43億ユーロ(約6,800億円)に及んだ。 また、国内における公立の記念館には、ナチ収容所跡をはじめ、抵抗運動を闘った人々の顕彰施設なども数多く存在する。そして、ドイツ国民が日々多数訪れ学んでいる。 日本では、近現代で平和のために闘い殺された人々の数は2,000人を超すといわれるがそれらを顕彰する施設は、現在、公立では皆無だ。国の政治の差があまりにも著しい。 (2)アウシュビッツは語る 多種の共存に対して眉間にしわを寄せる人を時に見ることがある。日本では、知識人を名乗る人の中にも見ることがあるし、いっぱしの平和活動家の中にも類似の態度を見ることがある。それは、己の無知や弱さを隠し卑屈に内にこめる内心や理由を他のせいだとすることなどに始まりがあるのではないだろうか。 自身の不安を、他を排他することで安堵させようとする競争原理が、今も起きている人類のいさかいの中心にあるのは周知だ。現今の、米国のイラクをはじめとした政略は、国家のイズムと合わせてことさらその代表と言えるのではないか。米国政府の「正当性」を通そうとする姿に、彼らの発達したという資本主義と共に、わが日本政府も同影の下で走ろうとすることに日々怒りが増す。 1940年からドイツがおこなった、ポーランドにおけるアウシュビッツをはじめとした大量殺戮は、特定の人たち以外を排除しようとする「進んだ」人たちの画策であった。 ドイツ人全てが特別な恐ろしい人類ではなかったのはもちろんだが、多くの国民が無関心であったことや、保身のために無言であったところに、今日においても指摘される多くの類似点・問題点を包含提示している。 このたび、ポーランドを訪れ、アウシュビッツ、ビルケナウ収容所の実態を見学し、ガイド氏の話を聞いて感じたが、あの悲劇のユネスコ世界遺産の中に、平和と共存できない競争社会の行く末を見たような気がしてならない。 オシフィエンチム(アウシュビッツ第一)収容所でのガイド氏は「この過去の現実を良く見ていただいて、よく考えていただきたい」という主旨のことを幾度も繰り返した。即ち、この非道をおこなったのは「特別の人間ではなく、みなさんと同じ人びとだったのではないか」ということを示唆している。 子どもたちにいたるまで競争原理が浸透し、巷には気力をなくした若者がつくり出される日本の昨今、60数年前の不安な時代と類似していると言われる先輩の声を想い起こす。 ポーランド・アウシュビッツは年間の日本人訪問者数は7,000人を超えるということだが、さらに増えて欲しいと願う。そして互いに自分の位置をよく理解できるようになりたいと自分に向かっても特に強く思う今日である。 |
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写真撮影も筆者 | |||
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