投 稿

 
第4回「人間レーニン紀行」  スイス・フランスの旅

                                       永井 孝二
  (1)〜(10)           →(11)以降 

 (1)美しい街パリ

 「4回も連続参加なんて、凄いですね」とある人からいわれた。たしかに、今回参加16人のうち、第1回から参加しているのは、福岡の藤野先生、小林夫妻と私の4人だけであった。8月25日 の朝TGV(フランス新幹線)でジュネーブを発ち、3.5時間でパリに着いた。パリ3泊のうち1日半のフリータイムがあり、各所を見て回ることができた。
 エッフェル塔や、凱旋門から直線でつながるシャンゼリゼ通り、その広い歩道を行き交う世界中からの老若男女。それらを飽きずに眺めながら、私とKさんは屋外レストランでビールとサンドイッチの昼食をとった。このとき、大人の男女の友情を描いたフランスの小説「人間のしるし」について私が話すと、Kさんは「読んでみたい」と言った。
 パリは歴史的魅力に溢れる美しい街という印象を受けた。

 

 (2)パリ市庁舎前の裸婦像


 私たちがパリ滞在中、世界陸上選手権大会が開かれていて、パリ市庁舎前広場がマラソンのスタート点になった。私と同行のN氏がここを訪れたのは、マラソンの2日前である8月28日の午前9時過ぎだった。市庁舎を前にして、私とN氏は「うーん、これは凄い!」と思わずつぶやいた。
 去年見たミュンヘン市庁舎にも驚かされたが、こちらはそれを上回るものがあった。壁面には歴代の首長なのだろうか、多数の立像がはめ込まれてあった。「「この建物はおそらく、パリ コミューン(1871年)の頃からのものだと思う」とN氏は言った。
 建物の前面に二つの裸婦像がたっていた。右手にコンパスを持ち、足元に地球儀と本を配したこの像は、これまでみた裸婦像の中でも特に印象に残るものとなった。

 

 (3)エッフェル塔の上から


 パリに来て3日目の8月27日は、一日フリータイムであった。

 私はKさんとピカソ美術館、カルナヴァレ博物館(フランス革命の博物館)、凱旋門、映画博物館、エッフェル塔などを回った。
 帰りに三越でお土産を、その近くのコンビニで夕食のおにぎりと缶ビールを買った。
 ホテルにもどって藤野先生の部屋を訪ねると、Iさんもいて酒盛りの最中だった。
 Iさんはこの日単独行動をとったが、朝一番でエッフェル塔にのぼり、展望台で「愛する人」の名前を叫んできたという。亡くなった奥さんと「愛する人」を並べて貼った写真をみせてくれた。「どちらも美人だよ」と藤野先生が言った。Kさんが「これは人間のしるし≠セね」と言ったので、私はおかしくなった。

   
 

 (4)モンマルトルのシャンソン
 私たちの「レーニン紀行」団には、昨年から“歌姫”が誕生した。 九州から参加しているSさんである。

 藤野先生の部屋で「愛する人」の話を聴いた晩、彼女が歌の先生から紹介されたという「シャンソンを聴かせる店」に6人で出かけた。 それはモンマルトルの丘にある「ラピン・アジル(写真)という店で、午後9時が開店だった。客の入りは6分ぐらいで、歌い手は7、8人の男女だった。
 ♪オーシャンゼリーゼ/ いつも何かすてきなことがあなたを待つよ/ オーシャンゼリーゼ♪。みんなが知っている歌は全員の大合唱となった。
 私たちの向かいに座ったカップルの女性が、歌に酔いしれている姿が印象的だった。
 

 (5)ヨーロッパ最高峰に登る

  この旅の4 日目、8 月22日はスイスに来て最初の終日フリータイムであった。
 私たち5人は、ベルンからユングフラウ・ヨッホ(お嬢さんの山という意味)の日帰りの旅を楽しんだ。
 なにしろ3,571mの頂上まで電車で登ってしまうのだから凄い。しかも、このトンネルをくり貫いた登山電車道は100年以上前に作ったという。
 地球温暖化のせいか、氷河には大きな亀裂がはいり、雪解け水が滝となって流れ落ちていた。
 登りと下りのコースを変えたので、スイスの山々の美しさを心ゆくまで堪能することができた。
 

 (6)「人民の家」でレーニンが講演
 8月20日、チューリッヒ市内の「人民の家」に行った。

「人民の家」の前の広場にある
労働者家族像
 4階建ての建物の2階に、レーニンが青年集会で講演した部屋があり、正面にレーニンのレリーフが飾ってあった。1917年1月22日に行われたその講演は、次の言葉でしめくくられたという。
 「われわれ老人たちは(レーニンは47歳だった)、おそらく、生きてこのきたるべき革命の決戦を見ることはないであろう。しかし、私は、堅い確信をもって、つぎのような希望を述べてよいと信じる。それは、スイスや全世界の社会主義運動でこのようにりっぱに活動している青年諸君は、きたるべきプロレタリア革命で闘争するだけでなく、さらに勝利もする幸福をもたれるであろう、ということである。」(『人間レーニン』p359)
 

 (7)レーニンが住んだ家
 8月21日チューリッヒから列車で約1時間かけて、スイスの首都ベルンへ移動し、ディステルヴェーグ11番地にあるレーニンが住んだ(1914年10月〜1915年4月)家を訪ねた。
 ちょうど、外出するところだったのかご主人が外に出ていて、まもなく奥さんも出てきた。そして「以前、留守にしていたときマスコミが取材にきて、隣の住人から部屋の間取りを訊いていったことがあった」と話してくれた。
 藤野先生は、「当時、すぐ近くにイネッサ・アルマンドも住んでいた」といって、「レーニンの愛人で隠し子がいた」とまでいわれたイネッサについて説明してくれた。

 あとで藤野先生は「あの時はみなさんの眼がらんらんと輝いていましたね」といってみんなを笑わせた。
 
 

 (8) ベルンの森で車座になり

 ベルン郊外にブレムガルテンという大きな森がある。この森の中で、1914年9月6日ロシア社会民主主義者の集会が開かれ、レーニンの報告『ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義派の任務』を採択した。

 「帝国主義戦争を内乱へ」というスローガン に代表される、いわゆる『ベルン決議』である(『人間レーニン』p309)。ヨーロッパを中心に30余か国が参加した第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)が勃発した直後のことであった。

 8月21日、私たちはその森の中で車座になり、「レーニンの旅」について話し合った。私は「来年こそ新人を誘って参加したい」 と述べた。

 

 (9)藤野先生 インタビュー受ける
 8月23日ベルンから列車でジュネーブに移動し、専用バスに乗り込んでいるところへ、「スイス共産党」の人たちが訪ねてきた。スイスでは、労働党と名のっていたはずだが?と思っていると、一緒に乗り込んだジェローム氏がそのいきさつを話してくれた。

左から、Kさん、藤野先生、記者、通訳、ジェロームさん


 スイス共産党は、26歳から30歳前後の青年数十名によって1年半前に結成されたばかり。現在党員は数百名になり今年10月の国会選挙には出る、ということだった。

 レマン湖畔のレストランでの昼食時、藤野先生はこの人たちからインタビューを受けた。「日本共産党はどのような党か」を説明すると、「あなたは党のどんな地位にいるか」と質問されたので、先生は「ただの、平党員にすぎません」と答えたという。
 彼らは、ジェローム氏ともう一人の幹部、女性記者、年配のカメラマンの4 人だったが、取材のあともJ 氏ともう一人が市内を一緒に回って協力してくれた。
 
 

 (10)ロンジュモの党学校
 ロシア社会民主労働党の内部は、ボルシェヴィキ(レーニン派)とメンシェヴィキ(反レーニン派)に分かれていたが、反動の時期(1907〜1910)になると、ボルシェヴィキの中にも反レーニン派が出現した。ボグダーノフ、ルナチャルスキー、ゴーリキーなどだが、彼らは1909年イタリアのカプリ島に党学校を開いた。
 これに対抗してレーニンたちが開いたのが、ロンジュモ(パリ郊外)の党学校(1911年春から3ヶ月間)である。
 学生はロシア各都市から来た18名の労働者で、ボルシェヴィキ10名、メンシェヴィキ4名など党内三派から集まった。講師は、レーニン(経済学、農業問題、社会主義)、イネッサ・アルマンド(経済学ゼミナール)、ジノヴィエフ、カーメネフ(党史)、リャザーノフ(西ヨーロッパの労働運動史)、ルナチャルスキー(文学)などであった。(『人間レーニン』p249)

 8 月26 日私たちがここを訪れた時、バカンスなのか住人はいなかった。「このみすぼらしい建物を見ていると、当時のレーニンたちの苦労が偲ばれますね」と藤野先生が言った。

      →(11)以降                                          
                            (日立市「金沢支部ニュース」より)