いきさつ
昨年、チェルノブイリを目ざしてロシア(といってもモスクワだけ)とベラルーシそれにウクライナの3カ国へ、8泊9日で出かけてきました。原発問題住民運動連絡センターと日本ユーラシア協会の共催による「チェルノブイリ原発事故20年/ベラルーシ・ウクライナ現地調査の旅」に同行したものです。
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チェルノブイリ原子力発電所の位置 |
話の発端は2006年5月、水戸市での茨城県中央メーデーでのデモ行進のことです。チェルノブイリの原発事故を話題にしながら行進していると、茨城県原発を考える会会長の中村敏夫さんから「チェルノブイリ原発調査のツアーがあるので行ってみないか」と誘われたからです。私は「ほかに身近な人で一緒に行く人がいれば行きます」と、二つ返事で参加することにしたものです。
この年4月26日はソビエト連邦のチェルノブイリ原子力発電所の第4号機で原発史上最大の爆発事故が発生して放射性物質(いわゆる死の灰)を撒き散らし、地元はもとよりヨーロッパを中心に世界的に大被害を与えてから20年になりました。この原発事故はソ連の崩壊を早めたという説もあります。マスコミでも20周年ということであらためて大きく取り上げられていました。
ベラルーシとウクライナは1991年の旧ソ連の崩壊後正式に独立した国ですが、1945年の国際連合創立時から国連加盟国でした。ともに東はロシアに西はポーランドに接しています。
ベラルーシは旧ソ連時代には白ロシアと呼ばれていましたが、ベラルーシとは西ロシアという意味だそうです。北はバルト3国に接しています。首都はミンスクです。ベラルーシには現在まで原発は一つもありませんが、チェルノブイリ原発に隣接していたために大変な被害を受けています。
ウクライナの南は黒海に面し、さらにその先はトルコです。ウクライナはソ連の穀倉地帯であり工業も盛んであると、かつて(40年以上も前のことですが)教科書で学んだ記憶があります。首都はキエフです。キエフは古代ロシア発祥の地で首都でもありました。その後モスクワが勃興して勢力を拡大し、キエフと抗争して首都の座を奪ったものです。
ウクライナには現在も原子力発電所が4ヶ所あるそうです。チェルノブイリ原発はベラルーシとの国境沿いにあり、当然のことだと考えますが全く稼動はしていません。しかし現在も環境基準を超える放射性物質を放出しています。
私にとって初めての海外旅行でしたが、
@ 日本とは違う国があり、それぞれの国で住民が必死に生活をしていることを実感した。またどこでも中心地にキリスト教(ギリシャ正教を基にする各国の正教)の教会がある。
A 日本は緑の国といっているが、各国とも日本以上の緑の国であった。しかも大平原・大森林でる。
B チェルノブイリの原発事故の直接原因は、原子炉そのものではなく発電のためのタービンであったことを知った。その動いていない原発を100年は管理しなければならないとのこと。原発は1度重大事故を起こしたらおしまい、だから絶対に事故を起こしてはならない。
などを感じました。
モスクワへの旅立ち
私たちは2006年の8月27日に成田空港に集合して「ベラルーシ・ウクライナ現地調査」の結団式を行いました。調査団は団長の原発センター筆頭代表委員の伊東達也さんをはじめとして全員で19名です。団員は全国の原発問題住民運動関係の役員や、現・元の県会議員と市町村会議員、科学者・弁護士など多彩です。その中で無職でフリーターなのは私だけのようです。
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中央が児島宏子さん=ミンスクにて |
副団長として日本ユーラシア協会副理事長の児島宏子さんが加わりました。児島さんにはロシア語通訳・ガイド・旅行の添乗員として全行程で大変お世話になりました。児島さんはロシアの地理・歴史・文学に造詣が深く、私たち団員を飽きさせることがありませんでした。それもそのはずです。帰国して調べて分かったことですが、児島さんはロシア語の本を数10冊も日本語訳で出版したり、映画の日本語訳をしているたいへんな方だったのです。
イギリスでテロ未遂事件があったため航空機官制が強化され、搭乗手続きと機内持ち込みが厳重になっていると報道されていましたが、とくに厳しいチェックはありませんでした。これは私たちが乗ったのがアエロフロート―ロシア航空だったからのようです。ロシア行きには規制強化は関係なかったのです。また前日ロシアで航空機が墜落したので大丈夫かと心配が頭をよぎりましたが、落ちたのはロシア国内線でアエロフロートは国際線で安全ですといわれホットしました。
正午発の予定が45分遅れで離陸しました。およそ250人乗りのボーイング747機でほぼ満席のようでした。このアエロフロート機はモスクワ経由パリ行きに接続されていて、ヨーロッパへはたいへん便利だそうです。新潟から日本海を抜けてロシアに入るのですが、雲の中で何も見えませんでした。機内では日本食の昼食と軽め(日本人にとってはかなりな量)の夕食が出ました。
本を読んだり居眠りをしていると窓外に緑の大地が見えてきました。山などは見当たりません。人の住む集落(村や町)も見当たりません。見えるのは曲がりくねった大河、ときおり湖、直線が続く道路、白く輝く広い筋(これも川だと思いますが)。石油採掘所かコンビナートか、立ち上る炎が見えるという人もいます。こんな光景がモスクワまで続きます。
私はかつてのロシアが広大な領土を獲得できたのは何故だろうと、かねがね疑問に思っていました。この広大なシベリアの大地を目の当たりにして、ロシアに抵抗できるだけのまとまった国家・民族・集団が成立していなかったためではないかと感じました。
そうこうしているうちにモスクワが近づいてきました。ヨーロッパの東の境ウラル山脈も気付かぬうちでした。ほぼ予定通りの9時間でシェレメチェボ第2空港へ到着です。
モスクワにはいくつか空港があるようですが、このシェレメチェボ第2空港が国際線の主要空港のようです。入国手続きにはいらいらさせられました。成田出国の4倍くらいの時間がかかりました。ロシアにはチェチェンをはじめとした民族紛争を抱えているのが理由かも知れません。成田からモスクワまで12時間禁煙を強いられてきましたが、これで解禁です。
この空港はモスクワの中心部から30〜40km離れた森林の中にあります。シェレメチェボ空港はかつてのロシア貴族にちなんで付けられた名称で、この辺りはシェレメチェボ家の土地だったそうです。この貴族はロシア皇帝に次ぐくらいの地位だったとのこと。
今夜はモスクワ泊りで明日ベラルーシ行きへの中継地です。ホテルは空港の目の前にあるノボテルです。ホテルには、真夜中の3時4時でも人の出入りがありました。どうやら空港が24時間開港のためのようです。
ベラルーシへ
2日目の8月28日は朝8時に専用バスに乗りシェレメチェボ第1空港に向いました。次ぎの訪問国ベラルーシに行くためです。第1空港は第2空港の隣にあり、旧ソ連時代には国内空港として使われていたそうです。ホテルからおよそ30分林の中を走り第2空港に到着です。
シェレメチェボ第1空港から約1時間半でベラルーシの首都ミンスクの空港です。モスクワからミンスクまで機外の風景は、前日と同様に大草原・大森林が広がります。ベラルーシには山と呼べるような土地はなく、最高地でも3百数十メートルだそうです。またベラルーシは森と湖の国といわれているようです。
ミンスク空港の入国検査では、上着と靴を脱がされベルトを外されボデイータッチを受けました。厳しい身体検査の割には、手荷物検査は何事もなくパスしました。
ミンスクの空港から専用バスで市内中心地へ向います。森林と草原の中を通り45分くらいで到着です。郊外には10数階建てのアパートが林立し、市内はほとんど5階立て前後の建物で調和の取れた形でならびます。その5階立ての建物の1階は商店街で、聞いたところによると2階以上の多くはアパートになっているそうです。午後1時ころ本日の宿泊先のホテルウクライナに入りしばし休憩です。
ベラルーシの人口は約1100万人、首都ミンスクの人口は百数十万人。ベラルーシは第2次世界大戦でナチスドイツの猛攻撃を受け、国土の85%が破壊され人口の3分の1が死亡しドイツに占領された歴史があります。日本でこれだけの甚大な戦争被害があったのは沖縄県だけです。
現在のミンスク市内は公共・民間を問わず調和の取れた都市計画により、道路も広く公園も多く緑も豊かな整然とした町並みになっています。
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長崎の鐘 |
ホテルでの休憩後市内見学に出かけました。私たち調査団はとある教会の一画に案内されました。
案内はベラルーシの国会議員の方です。そこにはかつて原爆により耐え難い被害を受けた長崎市のキリスト教会の有志が贈った献金をもとに、ミンスク市で作られた「長崎の鐘」の複製が設置されています。説明では浦上天主堂の鐘のコピーだということです。
このミンスクにはチェルノブイリ原発事故の被曝者が多数住んでおり、その被曝者を励ますために鳴らされるということです。ともに原子力の災難にあった長崎とミンスクの市民の友好の証です。
続いて私たちはミンスク市役所に案内され市長を訪問しました。市長は夏期休暇中ということで副市長が応対してくれました。副市長はチェルノブイリ原発事故について、当時の状況とその後の対策それに今後の対応などについて述べました。伊東調査団長は、私たち調査団はどういう団体か今回の調査の目的などを述べ応えました。
ミンスクでの1日
日本を発って3日目は1日中ベラルーシの首都ミンスク滞在です。本日の行動は2つの研究所訪問とベラルーシ友好会館を訪問し3つの行事と、中味の濃い充実した日程でした。午前8時過ぎから午後6時過ぎまでで休息は移動の専用バスの中くらいです。
まず訪れたのは自然環境センター。
この研究所では 1) ベラルーシの環境保護 2) 環境汚染情報の収集と報告 3) 気中・地中・水中での放射線汚染の調査・研究が、主な研究内容だそうです。
研究所の話では20年前のチェルノブイリ原発事故当時、ベラルーシ国土の23%が放射線に汚染された。現在も19.8%の国土41、000平方kmが汚染されて、その中に3500の居住地域がある。そして現在までに金額にして350億ドルの被害が発生しており、汚染地域の社会的状況はむしろ悪化しているとのことです。
続いて非常事態管理センターを訪問。
この研究所では放射線を含む全ての情報を収集して、その情報を国の非常事態省へ通報する業務だそうです。ベラルーシには原子力発電所は無いけれども、その情報はヨーロッパの全ての国と交換しているとのこと。
昼食後ベラルーシ友好会館を訪問し、友好協会会長と懇談しました。ベラルーシには日本との友好協会があるそうで、ミンスク市は世界の37都市と姉妹都市の提携をしているとのことです。この懇談には日本の外務省のベラルーシ大使館開設準備官も同席しました。この準備官は現在1人で業務を担当しており、近いうちに大使館が開設されるのでしょう。
友好協会会長と懇談の後別室でチェルノブイリセミナーが開催され、私たち調査団全員も参加しました。このセミナーでは隣国ウクライナで発生した原発事故が、ベラルーシに与えた影響とその対策の現状と今後の方向についての研究が報告されました。
まず各界代表として友好協会会長、ベラルーシ大使館開設準備官、ベラルーシ日本協会会長・副会長、日本側調査団代表などが挨拶しました。私たちは初めてこのセミナーがベラルーシの公式行事であることがわかりました。まさに破格の待遇でした。各界の挨拶では広島・長崎の原爆被害を受けた日本と、原発事故の被害を受けたベラルーシは共通の認識があるとの発言が目立ちました。このセミナーにはベラルーシの4人の青年・学生も参加しました。
セミナーではでは5・6人の科学者・技術者が研究報告をしました。報告は全体として 1) 事故後20年経ち若い人も増え、国民の関心が薄れてきている 2) 放射線の影響は社会的にはむしろ拡大しているといえる 3) 現在もまだ110万人が汚染地域に生活している 4) 今後も巨額の対策費用が発生する 5) 対策には国際的に援助協力が欠かせない ということでした。
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ベラルーシ民族楽団 |
セミナーのあと私たち調査団のために歓迎レセプションが用意されていました。軽食を囲みながら4人の若者たちとも懇談しました。レセプションではベラルーシの民族楽団の演奏も披露されました。この楽団は15、6人編成で、アコーディオン以外はほとんどが同じ弦楽器です。この弦楽器は日本の琴のようですが、ハープ横にしてテーブル上に置いたようでもあります。弦が10数本あり1本の弦は6・7本の糸が縒り合わさっています。これをバチでたたいたり、手でたたいたり弾いたりして演奏します。全部で10数曲演奏してくれました。
後で調べた事ですがこの楽器はツインバロムというようです。
前にも触れましたが、ベラルーシは第2次世界大戦で国民と国土に甚大な被害がありました。市内には各地にナチスドイツとの戦いを記念したモニュメントがあり、参拝者と花束が絶えないのを目にしました。
これも前にも触れましたが、キリスト教の教会も多数あります。ホテルの近くにも教会があり、人通りもまばらな早朝から、庭掃除をしたり教会の物品を販売する準備をする人がいました。このような人には高齢の女性が多いようでした。ロシア革命当時、教会の多くは反革命の立場になり破壊されましたが、反革命に加わらなかった教会は破壊されなかったとのことです。
ミンスクはベラルーシの首都だけに道路も広く、交通機関は電車・トロリーバス・バス・タクシーで地下鉄もあります。もちろんマイカーも走っています。歩道には屋台の出店も多く、食事が出来るようになっています。とくにコカコーラの看板を掲げた飲み物の店が過当競争のように目立ちます。(これは後に訪れるキエフやモスクワでも同じでした。)
国境の町 ゴメリへ
日本を発って4日目になります。1日中専用バスに乗って、チェルノブイリ近くのウクライナとの国境の町ゴメリへ向かいます。ミンスクから480kmです。
いよいよチェルノブイリの高濃度汚染地域から、30km北方に隣接したホイニキ村へ向います。バスで350kmの道のりです。途中の道路は高速道路かは分かりませんが、よく整備されていてバスは高速で飛ばします。信号待ちをした記憶はありません。
ベラルーシからウクライナにかけては、ヨーロッパの大河ドニエプル川のつくった低湿地帯になっています。道路の両側は大森林と大平原が続いていて、村や町はほとんど見当たりません。大平原は牧場や農場になっていますが、バスの中からでは何を作っているかは判りません。ベラルーシでは牛肉・豚肉・鶏肉の順に高くなっていて、日本とは逆だそうです。後で調べて分ったことですが、ベラルーシは麦類の耕作が盛んで、ライ麦は世界第4位の生産量です。
途中で停車しては残留放射線量を測ります。次第に放射線量の値が高くなっていきます。高濃度汚染地域に近づいているのが分かります。
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地域研修所で学ぶ子供たち |
ホイニキ村には地域住民に放射線障害に対する知識と情報を提供するための施設があり、調査団はここを訪問しました。
チェルノブイリの事故後20年経過し、住民の危機意識も薄れ事故そのものを知らない子供たちも増えています。しかし残留放射線の危険が消え去った訳ではなく、これからも長期にわたって危険性を教育していかなければなりません。
研修所はこのための施設で、子供たちに「森の恵みを受け取ってはいけない。」と教えているのだそうです。放射性物質は地下水と土壌を通じて、植物へ凝縮して蓄積されるのです。森の恵みとは木の実・キノコ・果物・ベリー類などのことだそうです。
研修所を後にした調査団は、半径30kmの高濃度汚染地域入り口の検問所まで行き、付近を見学しました。もちろん中へ入ることは出来ません。中には立ち退いた住民の住居がそのまま残っていて、その一部は汚染地域の警備員が使用しているとのことです。
これより先はベラルーシ第2の都市ゴメリ(人口約50万人)へ向かいます。ホイニキから130km、ミンスクから9時間でゴメリへ到着です。今夜はツーリストホテルへ宿泊です。
夕食のために近くのレストランに出かけました。団員の一人が六十何回の誕生日ということで、歌あり・ショウあり・ダンスありの食事会で祝い、楽しくひとときを過しました。
ゴメリ訪問
翌31日は午前中、ゴメリ市内にある二つの研究所を訪問しました。
その一つは放射線生物学研究所
女性の代表者が次のように説明してくれました。1987年に首都ミンスクに創設され、03年にゴメリに移転。主にチェルノブイリ事故による障害と汚染対策を生化学の面から研究。具体的には空中・水中・土中の放射性物質が、植物に移行するのを抑制する研究。さらには放射性物質が人体に与える影響とその対策方法を研究。
二つ目は放射線医学研究所
男性の副所長が次のように説明してくれました。
1986年に放射線汚染のない農産物を手に入れるために、専門家を養成することから開始。96年から汚染地域の回復のために、農業だけでなく社会生活全般についての研究を開始。現在11の研究部門があり、住民の精神状況まで踏み込んだ総合的な研究をしている。その目的は住民が普通に生活できるようにリハビリすることだ。
そして内部被曝の三大要素として、牛乳・ポテト・森の幸が問題と指摘しました
調査団は二つの研究所とも、研究室まで見学させてもらいました。研究所には女性の研究員が男性よりも多いように見受けられました。
国境を越え スラブチッチヘ
ゴメリでの研究所訪問を終えた調査団は、いよいよ国境を越えウクライナのチェルノブイリに隣接するスラブチッチヘ向かいます。専用バスで7時間の道のりです。車窓風景は今までと同様です。
ベラルーシ側では迷彩服の検査官がバスに乗り込んできましたが、パスポートチェックのみでOKとなりました。社外ではマイカーが1台ずつ入念にチェックされていて渋滞になります。中には小銃を肩にした検査官と言い争っている人もいます。
ウクライナ側では入国審査に時間がかかりました。調査団以外は比較的早く審査が終るのに、私たち日本人は待たされました。「3、000ドル以上持っている人はいないか」との質問もありました。
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原発事故犠牲者慰霊モニュメントの一部 |
国境検問で2時間もかかったため、スラブチッチでの予定が大きく変更になりました。
スラブチッチはチェルノブイリ原発で働く人たちのために、原発事故後半径三〇km圏外に作られた町で、ウクライナで一番新しい町です。人口は25、000人ほどで、平均年齢は29歳と非常に若いのが特徴です。原発で働く人たちの給与はウクライナの一般の労働者の4〜5倍と、高給だそうです。
家族持ちの労働者の住居は140平方メートルほどで、一見コテージ風の一軒家になっていて低家賃です。
ここでは事故犠牲者慰霊のモニュメントに参拝しました。亡くなった31名のレリーフが掲げられています。事故犠牲者とは、原発の爆発やその消火作業と原子炉の封じ込め作業で亡くなった方のことです。
後編は→こちら |